目次
- 1 第1章:S型ニコンとは何か ― 日本が世界に誇るレンジファインダー伝説
- 2 第2章:S型シリーズの原点(1948〜1950)
- 3 第2章-2:Nikon M ― 改良と輸出を意識した進化
- 4 第2章-3:Nikon S ― フラッシュ時代への対応
- 5 第2章-4:Nikon S2 ― 世界を驚かせた完成形レンジファインダー
- 6 第2章-5:Nikon SP ― レンジファインダーの頂点
- 7 第2章-6:Nikon S3・S4・S3M ― 普及型から特殊モデルまで
- 8 第3章:S3 2000年記念モデル ― 復刻に込められた意義
- 9 第4章:幻のS型 ― 試作機とSPXの存在
- 10 第5章:現代におけるS型の価値と楽しみ方
- 11 第6章:S型ニコンが残した遺産と未来への影響
- 12 終章:伝説は終わらない
第1章:S型ニコンとは何か ― 日本が世界に誇るレンジファインダー伝説
1950年代、日本がまだ戦後の復興期にあった頃、一台のカメラが静かに世界へと羽ばたきました。それが「Nikon S型」シリーズです。ドイツ・ライカやコンタックスといった巨匠が支配していたレンジファインダーの世界に、日本製が堂々と名乗りを上げ、のちに世界の報道現場を席巻するきっかけとなったのです。
当時、国産カメラといえばまだ「安かろう悪かろう」という評価が根強く、戦前の精密機器技術でもドイツ製に遠く及びませんでした。そんななか、旧日本光学工業(現ニコン)は軍用光学機器の製造で培った精密加工技術をベースに、“世界最高峰に肩を並べるカメラ”の開発へと踏み出します。その挑戦こそが、のちに「S型ニコン」と呼ばれるレンジファインダー機群の誕生でした。
📷 世界を変えた「報道カメラ」としての役割
S型ニコンの評価を一気に高めたのは、1950年に勃発した朝鮮戦争です。報道カメラマンたちが前線に持ち込んだ日本製のカメラが、ドイツ製を凌駕する解像力と信頼性を見せたことで、世界のプロフェッショナルの目が一気に日本へ向きました。
とりわけ米国『LIFE』誌のカメラマン、デビッド・ダグラス・ダンカンが使ったニッコールレンズの写りが高く評価され、戦場写真のクオリティが「ドイツ製よりも良い」と衝撃を与えたのです。
それまで「日本製=廉価で二流」という偏見があった欧米市場で、Nikonの名は一夜にして世界標準の仲間入りを果たしました。S型シリーズはその象徴であり、「報道カメラの時代」を切り開く扉を開いた存在だったのです。
🛠️ S型の基本思想 ― “現場のための道具”
S型ニコンが他のレンジファインダー機と一線を画していたのは、「実用性」に徹底的にこだわった設計思想です。カメラは芸術品ではなく、過酷な現場で確実に写真を撮るための“道具”であるという哲学のもと、耐久性・信頼性・操作性すべてにおいて妥協がありませんでした。
巻き上げレバーやシャッターダイヤルの配置、ファインダーの見やすさ、ボディ剛性など、どれを取っても現場カメラマンの動作に即した合理的な設計がなされています。
それはやがて一眼レフ「F」シリーズへと受け継がれ、Nikonブランドの根幹となっていきます。
🏆 「S型」がもたらした日本光学の飛躍
S型シリーズは単なるカメラではなく、日本光学が「世界のNikon」へと躍進する原点でした。1948年の初号機「Nikon I」から始まり、「M」「S」「S2」「SP」「S3」「S4」、そしてモータードライブ対応の「S3M」まで、十数年にわたって改良を重ねながら進化していきます。
その足跡は、日本の光学機器産業が欧米と対等に渡り合える水準へ到達した証であり、戦後日本が“技術立国”へと舵を切る象徴でもありました。
📌 次章からは、その歴史の幕開けとなった初号機「Nikon I」から順を追って、各モデルの進化と意義を詳しく見ていきます。
第2章:S型シリーズの原点(1948〜1950)
Nikon I ― すべてはここから始まった
「S型ニコン」の歴史は、1948年3月に発売された1台のカメラから始まります。それが記念すべき初号機、**「Nikon I」**です。戦後間もない混乱期、日本光学工業(現ニコン)は軍用光学機器の生産から民生用への転換を迫られ、新たな活路として本格カメラ事業に挑戦します。その最初の答えがこの一台でした。
📷 LeicaでもContaxでもない「第3の道」
当時のレンジファインダー機の二大巨頭といえば、**Leica(ライカ)とContax(コンタックス)**です。どちらも戦前から世界のプロフェッショナルに愛用され、機械工作・光学設計ともに完成度が極めて高いものでした。
日本光学は両者の長所を徹底的に研究し、「両方の良さを融合した理想的なカメラ」を目指しました。
- Contaxのようなバヨネット式マウントと高精度レンジファインダー
- Leicaのようなコンパクトなボディサイズと操作系
この2つを組み合わせた“ハイブリッド構造”こそ、Nikon I の本質です。単なる模倣ではなく、現場の使い勝手を意識した独自設計がすでに息づいていました。
📏 24×32mmという独自フォーマット
Nikon I 最大の特徴といえるのが、一般的な35mm判(24×36mm)ではなく、24×32mmという特殊な画面サイズを採用していたことです。
これはフィルムの無駄を減らし、1本から40コマ近く撮影できるという利点をもたらしました。当時の日本ではフィルムが高価で貴重だったため、撮影枚数が増えることは実用的なメリットだったのです。
しかしこの仕様は、国際標準との非互換性という壁に直面します。海外ラボでは24×36mmを前提としたスライドマウントが使われており、24×32mmではマウントに合わないという問題が発生しました。結果として、Nikon I は輸出不向きのカメラとなり、日本国内を中心とした限定的な流通にとどまります。
⚙️ 試行錯誤の連続と「未完成な名機」
初号機としての Nikon I は、今振り返るとまだ洗練されていない部分も多くありました。
巻き上げノブは小さく、シャッター速度も1/500秒まで、ファインダー倍率も低く視認性が十分とは言えませんでした。しかし、それらは初めて本格的な35mmレンジファインダーを国産で作り上げた証であり、後の改良への布石でもありました。
また、搭載されたレンズ「Nikkor 5cm F2」は、すでに高解像・高コントラストで世界的評価を得ていた光学技術の粋でした。このレンズ性能こそが、後の米報道カメラマンたちが Nikon を選んだ最大の理由の一つになります。
🌏 Nikon I の意義 ― 「世界への第一歩」
僅か738台しか生産されなかった Nikon I は、商業的な成功こそ限定的でしたが、日本カメラ史においては極めて大きな意味を持ちます。それは、国産カメラが本格的に“世界と戦う”ための最初の布石であり、技術的挑戦の出発点だったのです。
この経験を踏まえ、ニコンは次なるモデル「Nikon M」で大胆な改良に踏み切ります。画面サイズの変更、ボディ構造の強化、そして輸出を視野に入れた設計――その進化は、S型シリーズが本格的な成功へと向かう第一歩でした。
📌 次章では、この「I」の反省点を踏まえて大きく飛躍した改良機 「Nikon M」 の全貌を掘り下げていきます。
第2章-2:Nikon M ― 改良と輸出を意識した進化
初号機「Nikon I」は日本光学にとって歴史的な一歩でしたが、世界標準から外れた24×32mmフォーマットや輸出不向きな仕様が足かせとなり、販売面では大きな成功には至りませんでした。しかし、この経験は決して無駄ではありません。むしろそれが次なる進化の大きな原動力となり、1949年に登場する「Nikon M」へとつながっていきます。
🔧 “M” は “Modify” ― 改良への決意
「M」という名前は“Modify(改良)”を意味します。つまり Nikon M は、I 型で得られた数々の教訓を踏まえて改良された“第二世代”のレンジファインダー機でした。
最大の改良点は、画面サイズの変更です。Nikon I では24×32mmという独自フォーマットを採用していましたが、Nikon M では24×34mmへと拡大されました。まだ24×36mmの国際標準には届かないものの、これにより輸出先での現像・スライドマウントの互換性問題がある程度解消され、欧米市場進出への道がようやく見えてきたのです。
📸 ボディと操作性の洗練
Nikon M ではボディそのものの設計にも多くの改良が施されました。初号機では小型軽量を追求するあまり、やや扱いにくさが残っていた操作系が再設計され、シャッター速度ダイヤルや巻き上げノブの操作感が大きく改善されています。
また、ボディサイズがやや大型化され、グリップ性や剛性も向上。機械精度の向上とあいまって、より実用的で信頼性の高いカメラへと進化しました。
レンジファインダーの連動精度も高まり、ピント合わせの確実性が増したことは、プロフェッショナルから高く評価されました。
🌍 海外市場を意識した設計
Nikon M は単なる改良機ではなく、明確に「輸出」を意識して設計されたモデルでした。戦後の日本メーカーにとって、国内市場だけでは規模が小さく、欧米への輸出が不可欠でした。特に、当時世界最大のカメラ市場だったアメリカへの進出は大きな目標でした。
実際、M型は少数ながら輸出も行われ、海外の一部カメラ雑誌で取り上げられ始めます。まだ「Nikon」という名前は無名に近かったものの、この時点で光学性能の高さには一定の評価が集まり、のちのS2やSPが世界的成功を収めるための布石となったのです。
🧰 生産台数と希少性
Nikon M の生産台数はおよそ約1,600台強とされており、シリアル番号は“609760番”からスタートしました。Nikon I よりやや増えたとはいえ、依然としてごく少数でした。そのため、現存数は極めて少なく、現在のコレクター市場では非常に高値で取引されています。状態の良いものや、初期シリアルの個体は100万円を超えることも珍しくありません。
📚 参考資料
- 『ラピタ増刊 S型ニコン伝説』(小学館, 2000年5月31日発行)
- 松坂屋カメラオークション 2024年春・落札結果(Nikon M #609xxx 約118万円)
- Collectiblend.com 「Nikon M」相場データ(2025年時点:$4,000〜$7,500)
- クラシックカメラ専科・カメラレビュークラシック 各誌「Nikon M特集」記事
本記事の一部内容は、2000年5月31日発行の 『ラピタ増刊 S型ニコン伝説』(小学館) を参考にしています。
🚀 「S」への助走路
Nikon M は、いわば「I」と「S」の間に架けられた橋のような存在です。I型で得た教訓を生かして改良を重ね、次のモデル「Nikon S」へとつながる基盤を築きました。
フルサイズ規格への対応、シンクロ接点の搭載、さらなる操作性の向上――Nikon が本格的な世界進出を果たすための準備は、このM型で整ったのです。
📌 次章では、シリーズ名にもなった決定的モデル「Nikon S」の登場と、レンジファインダー史を変える重要な一歩を解説していきます。
第2章-3:Nikon S ― フラッシュ時代への対応
1949年に登場した「Nikon M」は、初号機「I」での課題を改良した重要なステップでしたが、それでもまだ「国際市場で戦える水準」とは言えませんでした。そんな中、1950年に登場した**「Nikon S」**こそが、ニコンのレンジファインダー機を“世界ブランド”へ押し上げる転換点となります。
このモデルで初めて「S型」の名が冠され、以後続く一連のシリーズ名の礎ともなりました。
⚡ フラッシュ撮影への対応 ― 写真表現の新時代へ
Nikon S で最も注目すべき進化は、**シンクロ接点(フラッシュシュー)**が搭載されたことです。これにより、ストロボ撮影が本格的に可能となり、報道やスタジオ撮影など表現の幅が大きく広がりました。
戦後の報道現場では、屋内撮影や夜間取材の需要が増えつつあり、フラッシュ撮影の有無がプロ用カメラとしての採用可否を分ける重要なポイントとなっていました。
Leica や Contax にもシンクロ対応モデルはありましたが、Nikon S はより安定した接点構造と使いやすさを備え、現場対応力で一歩抜きん出た存在となったのです。朝鮮戦争に従軍したカメラマンが梨地クロームのボディではキラキラと輝き、敵の目標になり危険だったので、日本光学に持ち込んで黒く塗り替えてもらった「黒塗りS型」がある。
🛠️ 外装・機構の改良と“完成度”の向上
Nikon S では、M型からさらに多くの細部が見直されました。ボディ剛性の向上、巻き上げ機構のスムーズさ、ファインダー視野の改善など、総合的な使い勝手が大きく向上しています。
特にファインダーは、ピント合わせの精度がさらに高まり、連動距離計としての信頼性が増しました。シャッターダイヤルも改良され、操作系がより直感的でプロ仕様に近づいています。
また、当時高性能と評された「Nikkor-S 5cm F1.4」や「Nikkor-H 5cm F2」などの交換レンズ群も充実し、S型ボディと組み合わせることで多様な撮影シーンに対応できるようになりました。
🌍 「S」の名が示すシリーズの出発点
「S」という文字には、“Synchro”(シンクロ)の意味が込められていますが、それだけではありません。日本光学が目指したのは、単なる改良機ではなく、新しい時代のスタンダードを担う存在としての意志表明でした。
実際、Nikon S はそれまでの I や M に比べて商業的にも成功し、国内外で約3万7600台が生産されたとされます。まだ大ヒットとはいかないものの、輸出向けとして本格的な出荷が始まり、欧米の一部プロ写真家にも使われ始めました。
このモデルこそ、後の「S型シリーズ」への道を切り拓いた初めての一歩だったのです。
🪶 報道カメラマンの信頼を勝ち取る
この時期から、米国の報道カメラマンの間で「Nikkor レンズ」の評判がじわじわと広がり始めます。とくに1950年〜52年にかけて朝鮮戦争の現場で撮影された報道写真は、解像力と描写力の高さから大きな注目を集めました。
そして、Nikon S の登場があったからこそ、こうしたレンズの性能を最大限に引き出せるボディが存在したのです。
この「現場で信頼できるカメラ」という評価は、のちに Nikon が世界の報道カメラ市場を席巻する土台となり、後継機「S2」の爆発的成功へとつながっていきます。
📈 S型シリーズの本格的な飛躍へ
Nikon S は、「I」と「M」の試行錯誤を経て初めて“完成形”に近づいたモデルでした。シンクロ接点の採用は、単なる機能追加ではなく、プロの現場で求められる信頼性と表現力を獲得した象徴であり、日本製カメラが欧米と肩を並べるための大きな一歩でもありました。
このSを基点に、Nikonは本格的な国際市場への進出を目指します。1954年、いよいよシリーズを決定的な存在へと押し上げる名機「S2」が登場します。それは、S型ニコンが“世界標準”へと変貌を遂げる始まりでした。
📌 次はいよいよ「S型ニコンを世界ブランドへ押し上げた決定的存在」――Nikon S2 の時代へ進みます。
第2章-4:Nikon S2 ― 世界を驚かせた完成形レンジファインダー
1954年に登場した 「Nikon S2」 は、S型シリーズの中でも特別な存在です。それまで「日本製カメラ」と言えば欧米製の後塵を拝していた時代に、「世界の一線級と肩を並べる」ことを初めて現実のものとしたモデルでした。
S2の登場を境に、ニコンは“模倣する側”から“追われる側”へと立場を変えていきます。
🌍 世界市場への本格進出 ― 35mmフルサイズへの対応
S2最大の転機は、ついに35mmフィルムの標準規格・24×36mmフルサイズへ完全対応したことです。
初号機「I」は24×32mm、「M」は24×34mmと中途半端なサイズでしたが、S2でついに世界標準と完全互換。現像ラボやスライドマウントとの互換性問題が解決し、輸出市場においても“プロ用カメラ”として堂々と認知されるようになりました。
この一歩は、単なるスペック上の変更ではありません。
**「Nikonはもはや日本国内専用機ではない」**という強烈なメッセージであり、S2以降ニコンは国際市場で本格的な存在感を放ち始めます。
🔎 ファインダー革命 ― 倍率1.0の明快な視界
S2がプロフェッショナルから絶賛された理由のひとつが、倍率1.0の大型ブライトファインダーです。
前モデル「S」では視野がやや狭く、ピント合わせがシビアでしたが、S2では一眼レフと錯覚するほど明るく大きなファインダー像が得られました。さらに、二重像合致式のレンジファインダー精度も大幅に向上し、素早く正確なピント合わせが可能となりました。
この“見やすさ”と“速さ”は、戦場や報道現場といった一瞬を争う現場で大きな武器となり、プロ写真家たちの信頼を勝ち取っていきます。
🛠️ 操作性と信頼性の飛躍
S2では内部構造も根本から見直され、フィルム巻き上げレバーやシャッターダイヤルの操作感が劇的に向上しました。巻き上げは従来のノブ式からレバー式へと進化し、連写速度が大きく向上。シャッターストロークは軽快で、撮影テンポが格段に速くなりました。
また、シャッター速度は最高 1/1000秒 に到達し、スポーツや報道撮影など動きの速い被写体にも対応可能となります。耐久性の面でも改良が加えられ、堅牢なボディと安定した動作が“過酷な現場でも壊れない”という信頼を築きました。
📸 プロフェッショナルの信頼を獲得
S2はその性能の高さから、アメリカや欧州の報道カメラマンの間で急速に支持を広げていきます。とりわけ朝鮮戦争終結後の1950年代中盤、米『LIFE』誌や『TIME』誌のフォトグラファーが S2 と Nikkor レンズを携えて世界各地を取材する姿が見られるようになりました。
その背景には、単なる性能の高さだけでなく、「Nikkor レンズ」の描写力の高さもありました。高解像でコントラストに優れたニッコールレンズは、LeicaやZeissに劣らないどころか、むしろ勝る描写と評価されることすらありました。S2はこのレンズ群を最大限に活かせるボディとして、まさに“世界水準”のカメラとして受け入れられたのです。
🏆 商業的な大成功と歴史的意義
S2は約5万7,000台以上が生産され、S型シリーズとして初めて本格的な量産と世界販売を実現しました。これは Nikon I や M、S が数百〜数千台規模だったのに比べると桁違いであり、S型シリーズが「ニッチな試作機」から「本格商品」へと進化した証でもあります。
S2の成功によって、Nikon は一気に世界市場での地位を確立し、その勢いのまま次なる最高峰機「SP」へと向かっていくことになります。
✨ “完成形レンジファインダー”としてのS2
Nikon S2 は、単なる後継機ではありませんでした。
それは「国産カメラが欧米を超えることができる」ことを初めて世界に証明した象徴であり、日本カメラ産業の新時代の到来を告げるモデルでした。
明るく広いファインダー、1/1000秒シャッター、フルサイズ対応、堅牢なボディ、優れた操作性――どれを取っても当時の最高水準。S2は“完成形レンジファインダー”として歴史に刻まれます。
📌 次章では、このS2の完成度をさらに超え、「ライカを超えた」とまで言われた伝説の最高峰機――Nikon SP の世界に踏み込んでいきます。
第2章-5:Nikon SP ― レンジファインダーの頂点
1957年に登場した Nikon SP は、S型シリーズの中でも「究極」「完成形」「頂点」と称される特別な存在です。S2までの歩みで培われた技術と経験がすべて結晶し、レンジファインダー機の可能性を極限まで高めたこのカメラは、登場から60年以上経った今も“伝説”として語り継がれています。
🏆 「レンジファインダーの最高峰」を目指して
SP の開発目標は明確でした。それは当時レンジファインダー界の絶対王者だった Leica M3 を超えること。ライカは戦前からプロカメラマンの標準機として君臨し、レンジファインダーの完成形と見なされていました。しかし、S2の成功で自信をつけた日本光学は、「ライカを凌駕するカメラ」を本気で狙いにいきます。
SP は単なる“後継機”ではなく、シリーズのすべてを再構築したフラッグシップでした。その思想は設計段階から貫かれており、「現場のプロが求めるすべてを1台で満たす」ことが使命だったのです。
🔭 世界初のマルチフレームビューファインダー
SP 最大の革新といえば、6種類のフレームラインを切り替え可能な複合ファインダーの搭載です。
標準搭載されたフレームは、28mm/35mm/50mm/85mm/105mm/135mm の6種類。これらが視度調整や外付けファインダーなしで切り替えられるという仕組みは、当時としては革命的でした。
特に28mm広角用フレームを内蔵したのは SP が世界初であり、これによりスナップから望遠まで、一本のボディであらゆる撮影領域をカバーできるようになりました。このマルチフレーム構造はその後の一眼レフのファインダー設計にも大きな影響を与えます。
⚙️ 機構・操作系の徹底的なブラッシュアップ
SP ではシャッター機構やフィルム巻き上げ機構も一新され、操作感と信頼性が飛躍的に向上しました。最高シャッター速度は 1/1000秒、シンクロ速度は 1/60秒 を達成し、報道・スポーツ・ポートレートなどあらゆる現場に対応。
さらに、フィルム巻き戻しクランクやセルフタイマーの操作性も改善され、使うたびに心地よい操作感が得られる完成度に仕上がっています。
この細部まで練り込まれた“操作性の完成度”は、まさに職人魂の結晶でした。S2までの流れを踏襲しつつ、SP は「プロフェッショナルツール」としての風格を備えるに至ったのです。
📸 プロが本気で選ぶカメラへ
SP は発売と同時に国内外の報道カメラマンから圧倒的な支持を獲得しました。複数の焦点距離を瞬時に切り替えられるファインダーと信頼性の高いメカニズムは、現場での機動力を飛躍的に高め、「交換レンズと一緒にSPを2台持つ」というのがプロの標準的な装備となりました。
また、ニッコールレンズの評価もこの時期に頂点へと達します。特に Nikkor 50mm F1.4 や 85mm F2 などはライカ・ツァイスに肩を並べる写りを誇り、SPとの組み合わせで戦場、スポーツ、ポートレートなど幅広い現場を席巻しました。
📦 生産台数と現在の評価
SP の生産台数はおよそ 1万2310台 とされ、S2に比べると少なめですが、その分プレミアム性は非常に高く、現在でも状態の良い個体は20万〜60万円以上で取引されることがあります。
特に初期ロットやオリジナルレンズ付きのセットはコレクターズアイテムとして世界的に人気があり、「レンジファインダー史上最高峰の一台」として今も特別な存在感を放っています。
また、1964年の東京オリンピックに合わせて報道関係者向けに数百台のSPが再生産されました。
このときに装着された標準レンズ「Nikkor-S 50mm F1.4」は改良版であり、後に**“オリンピックニッコール”と呼ばれるようになりました。
そのうちブラックボディ仕様はわずか50台**のみの生産とされ、シリアル番号は “6232101~6232150” の範囲に限定されています。箱あり美品オリンピックニッコール付きなら150~250万円もあります。
さらに、2005年にはSPの復刻版(Nikon SP Limited Edition)が登場し、こちらはブラックのみで2,500台限定生産されました。
復刻モデルのシリアル番号は “SP0001~SP2500” に刻まれており、外観や機構を忠実に再現した記念的モデルとして高い人気を誇ります。
🏁 SPが築いた“頂点”とその先
Nikon SP は、S型レンジファインダーシリーズの技術的頂点であると同時に、レンジファインダーというジャンルそのものの完成形でした。
しかし1959年、時代は一眼レフカメラの時代へと急速に移行します。同年、ニコンは伝説の一眼レフ Nikon F を発表し、プロフェッショナル機の主戦場はレンジファインダーから一眼レフへとシフトしていくのです。
それでも、SP は今もなおレンジファインダー機の究極と称され、その思想は現代のカメラ設計にも脈々と受け継がれています。Nikon SP は単なる一台のカメラではなく、「日本の光学技術が世界を超えた象徴」そのものだったのです。
📌 次章では、SP の成功を受けて派生した“兄弟機”――S3・S4・S3M などの多様なモデルとその特徴を詳しく見ていきます。
第2章-6:Nikon S3・S4・S3M ― 普及型から特殊モデルまで
1957年に頂点機 Nikon SP が登場した後も、ニコンはレンジファインダー機のラインナップ拡充を進めていきました。SPは高性能であった一方、価格も高く、すべてのユーザーが手にできるものではありませんでした。そこで誕生したのが、SPの弟分ともいえる S3、さらに廉価版の S4、そして特殊用途の S3M でした。これらのモデルは「SPの影に隠れた存在」と見られることもありますが、それぞれ独自の魅力と役割を担っています。
📸 Nikon S3 ― SPの弟分として
1958年登場の Nikon S3 は、SPの基本構造をベースにしながらも、コストダウンとシンプル化を図った普及型フラッグシップでした。
最大の違いは ファインダー構造 にあります。SPが6種類のフレームを切り替え可能だったのに対し、S3は 35mm/50mm/105mm の3種類に限定。これにより、構造を簡素化しコストを抑えつつ、標準〜中望遠を主に使うユーザー層に十分応える仕様となっていました。
外観もSPに酷似しており、ぱっと見では区別がつかないほど。ただしファインダー窓の数や、表示フレームの違いで判別できます。価格がSPより安価だったことから、報道用としてだけでなく一般ユーザーにも広く浸透しました。
生産台数は 12,310台とされ、SPほどではないにせよ、S型シリーズの中でも比較的多く市場に出回った機種です。多くのプロカメラマンからの要請で1964年に2000台が再生産された。シリアル番号は”620000″番台。
1964年の東京オリンピックに合わせて、プロカメラマン向けに約2,000台が再生産された「Nikon S3 ブラックボディ」は、標準レンズに装着された Nikkor-S 50mm F1.4(通称オリンピックニッコール) との組み合わせで現在も高く評価されています。
並品でも40〜60万円、美品・付属完備の完動品では150〜200万円前後に達することもあり、レンジファインダー期を象徴する記念的モデルといえるでしょう。
その後、S3 Limited Edition が2000年に期間限定で受注生産されました。
総生産台数は約8,000台とされ、ボディカラーはシルバーのみ。
さらに2002年には、ブラックボディ2,000台の「Limited Edition Black」 が発売されています。
見分け方として、2000年モデルには底部中央付近に 「MADE IN JAPAN」刻印 があり、
またフィルムカウンターの表記が従来の 20枚 → 24枚 に変更されているのが特徴です。
🪶 Nikon S4 ― シンプルを極めた廉価版
1959年に登場した Nikon S4 は、さらにコストダウンを徹底したモデルでした。
外観はS3に似ていますが、セルフタイマーを省略、モータードライブ非対応、さらにファインダーの視認性や装飾も簡素化されており、徹底した“廉価版”として位置づけられます。
そのため、当時の評価はやや地味で、商業的にも大きな成功とは言えませんでした。
しかし逆に、S4は生産数が非常に少なく、わずか 5,895台 にとどまったとされます。結果として現在では希少価値が高く、状態の良い個体はS3以上のプレミア価格で取引されるケースも少なくありません。
S4は「廉価版がゆえに高価になった」という皮肉な存在であり、コレクター市場では独特の位置を占めています。
🚀 Nikon S3M ― モータードライブ専用の異端児
1960年に登場した Nikon S3M は、S3をベースに開発されたモータードライブ専用機でした。
「M」は Motor の略であり、当時としては珍しい ハーフサイズ(18×24mm)フォーマット を採用。36枚撮りフィルムで72枚撮影できる仕様は、報道やスポーツ撮影において圧倒的な連続撮影能力を発揮しました。
モータードライブを標準装備したレンジファインダーというのは非常にユニークで、SPやS3とは異なる方向性を模索した挑戦作ともいえます。
ただし、この仕様は一般市場には受け入れられず、生産台数はわずか 196台。極めて珍しい存在となり、現存数も限られているため、世界でもっとも高価で入手困難なカメラの一つといわれている。
🎞️ S3・S4・S3Mの意義
これらのモデルは、SPの“完全フラッグシップ”に対して、
- S3:標準化と普及を狙ったバランス型
- S4:廉価志向のシンプル版
- S3M:特殊撮影用の実験機
という位置づけを担っていました。いずれも商業的にはSPほどの成功を収めませんでしたが、それぞれが「S型シリーズの多様性」を示す存在でした。
特にS3は2000年に復刻版(S3 2000 Limited Edition)として再生産され、現代のファンにも再び注目されることになります。
🏁 SPの後継たちが示したもの
S3・S4・S3Mは、いわばSPの影で生まれた兄弟機でしたが、それぞれの試みが後のカメラ史に少なからず影響を与えました。
廉価版であれ特殊機であれ、「ニコンがレンジファインダーの可能性をあらゆる角度から追求した」証であり、SPという頂点をより立体的に輝かせる存在でもあったのです。
📌 次章では、21世紀に突如復活した「伝説」―― S3 2000年記念モデル にスポットを当て、復刻の背景と意義を掘り下げていきます。
第3章:S3 2000年記念モデル ― 復刻に込められた意義
20世紀の終わりを迎える2000年、日本のカメラ史において一つの“奇跡”が起こりました。レンジファインダー機が主役の座を降りて久しい時代に、ニコンが半世紀の時を超えて「S型」を蘇らせたのです。それが伝説の復刻モデル 「Nikon S3 2000年記念モデル」 でした。
1958年のオリジナルS3から実に42年の時を経て登場したこのカメラは、単なる復刻ではなく、「日本の光学技術が世界に誇る遺産」としてのS型を再定義する特別な存在でした。
🏆 なぜ今、S3を復刻したのか
1990年代後半、カメラ市場はすでにAF一眼レフ全盛の時代を迎えていました。デジタル化の波も押し寄せ、レンジファインダー機は“過去の遺物”とすら思われていた時代です。
そんな中でニコンがあえてS3の復刻を決断した背景には、2つの大きな理由がありました。
ひとつは、「ニコンの原点を次世代へ伝える」という使命感です。戦後日本が世界と肩を並べるきっかけとなったS型シリーズは、同社の技術力と理念の象徴でした。その精神を21世紀に受け継ぐべく、当時の図面や資料を掘り起こし、往年の姿を忠実に再現するプロジェクトが始まったのです。
もうひとつは、「職人技術の継承」でした。自動化やデジタル化が進むなか、機械加工や組み立て技術の伝承が課題となっていた時代に、あえて機械式レンジファインダーという“手作業の極み”を復活させることで、技術者たちの技を次世代へ残すという狙いもあったのです。
🛠️ 復刻のこだわり ― 図面からの再構築
S3 2000年記念モデルの開発は、単なる「再生産」ではありませんでした。
1950年代当時の図面・部品・素材情報を丹念に洗い出し、現存していないパーツは新たに金型を起こして再製作。製造現場では熟練技師たちが一点一点を手作業で組み上げ、ほぼ当時と同じ工程で完成させていきました。
機構面でも忠実さが徹底されており、巻き上げレバー、シャッター、ファインダー、マウントなどの構造はオリジナルS3とほぼ同一です。ただし、内部の素材や表面処理など、一部には現代技術を反映させており、信頼性と耐久性は1958年当時を上回っています。
この“再現と進化の融合”こそが2000年モデルの真骨頂であり、単なるノスタルジーではなく、現代の工業技術と職人魂が出会ったプロダクトでした。
📷 復刻レンズ「Nikkor-S 50mm F1.4」も再生
この復刻プロジェクトの象徴とも言えるのが、オリジナルと同じ設計を再現した標準レンズ 「Nikkor-S 50mm F1.4」 の復刻です。光学系は1950年代と同一設計ながら、最新のマルチコーティングを施し、逆光耐性や描写性能を現代水準に引き上げています。
このレンズは単なる付属品ではなく、S型ニコンの魂そのものと言える存在でした。ボディとレンズの両方が当時の思想を継承し、撮影体験まで含めて“あの時代”を現代に蘇らせているのです。
🪶 復刻が残したもの ― 過去と未来をつなぐ架け橋
S3 2000年記念モデルの最大の価値は、「過去の名機を蘇らせた」ことだけではありません。
それは、ニコンという企業が歩んできた道を再確認し、未来へとつなぐ“架け橋”となったことです。
このプロジェクトによって、かつてS型を作り上げた職人たちの技術が再び工場に息を吹き込み、若手技術者へと受け継がれました。そして、S型が象徴した「信頼性」「精密さ」「道具としての本質」という理念は、21世紀のデジタル機にも脈々と生き続けているのです。
📌 次章では、S型シリーズの中でもマニア垂涎の存在――試作機や幻のモデルたちに焦点を当て、その希少性と意義を紐解いていきます。
第4章:幻のS型 ― 試作機とSPXの存在
S型ニコンの系譜には、カタログや年表にはほとんど登場しない“影の存在”が数多く存在します。それが、試作機(プロトタイプ)や、極少数のみが製造された特別仕様機です。量産機とは異なる設計思想や試行錯誤の痕跡が色濃く残るこれらのモデルは、当時のニコンがいかに真剣に「レンジファインダーの未来」を模索していたかを物語っています。
🛠️ 幻のS2試作機 ― 量産機と異なる姿
S型シリーズの黄金期を象徴する「S2」にも、複数の試作機が存在していました。現在確認されているものの中には、外観が量産モデルと異なり、軍艦部の形状や巻き戻しノブ、シャッター速度ダイヤルの仕様が大きく異なるものがあります。中には、ファインダー窓の位置やサイズが試験的に変更された個体もあり、設計段階でさまざまな検討が行われていたことがわかります。
こうした試作機の多くは社内用に数台のみ作られたもので、一般市場には出回りませんでした。しかし近年では一部がオークションなどで姿を現し、数百万円単位の価格で取引される例もあります。量産機では見られない意匠や構造が確認できるため、研究者やコレクターにとっては貴重な資料的価値を持っています。
⚙️ SPX ― 幻の頂点機
S型シリーズの中でも特に謎めいているのが、「SPX」と呼ばれる存在です。
1950年代末、SPの改良試作機として開発されたとされるSPXは、外観はSPに酷似していますが、細部に複数の変更点が見られます。代表的なのが、シャッターダイヤルの仕様変更や巻き上げレバーの改良案、新設計の露出計連動機構の検討などです。
SPXは正式な製品名ではなく、社内での呼称またはコレクター間の通称と考えられていますが、その存在は複数の実機で確認されています。生産数はわずか数台とも言われ、市場に出ることは極めて稀。確認されている固体はいずれも研究機・実験機的な性格が強く、レンジファインダー機の限界を押し広げようとした当時の開発陣の意欲が感じられます。
⚫ 白ダイヤル/黒ダイヤルと細部の違い
S型シリーズでは、同じモデル名でも生産時期や仕様によって細かな違いが見られます。その代表が「白ダイヤル(early)」「黒ダイヤル(late)」と呼ばれるSPのバリエーションです。
初期の白ダイヤルは操作感が軽く、後期の黒ダイヤルは操作精度が向上しているなど、細かなチューニングが異なります。この違いは当時の製造技術や改良の積み重ねを示す証であり、コレクター市場では別モデルとして扱われることも少なくありません。
また、マイナーチェンジでシャッターダイヤルの刻印、フィルムカウンターのデザイン、巻き上げノブの形状なども微妙に変更されており、「同じSPでも世代ごとにキャラクターが異なる」と言われるほどです。
これらは公式カタログには記載されない“静かな進化”であり、S型ニコンの奥深さを象徴する要素でもあります。
🧭 プロトタイプが語る開発者の思想
こうした試作機や特別仕様機は、単なる珍品ではありません。そこには当時の開発者たちが「次の一歩」を模索した試行錯誤の痕跡が刻まれています。
SPXのような存在は、もしレンジファインダー機の時代がもう少し長く続いていたなら、あるいは S 型が一眼レフに取って代わられなかったなら、次世代のS型として量産されていた可能性すらあるのです。
また、こうした試作機の検討結果は、後の Nikon F の開発にも活かされました。ファインダー構造の設計思想や操作系レイアウト、ボディ剛性に対する考え方など、S型時代の経験はそのままFシリーズへと受け継がれていったのです。
📦 希少性と現在の市場価値
試作機やSPXはその希少性から、コレクター市場では非常に高額で取引されます。状態や来歴にもよりますが、数百万円を超えることも珍しくありません。特に、開発過程で使用されたプロトタイプや、ニコン社内での検証資料が残る個体は、博物館級の価値を持つとされています。
これらは単なる“カメラ”ではなく、日本光学の歴史そのものを語る資料であり、「撮影機材」としてではなく「文化遺産」としての価値を持っているのです。
📌 次章では、現代における S 型の評価と、コレクション・実用の両面から見たその価値を総括していきます。
第5章:現代におけるS型の価値と楽しみ方
1950年代に誕生した Nikon S 型シリーズは、すでに70年以上の歳月を経ています。しかし驚くべきことに、2020年代の今なおこのシリーズは世界中のカメラ愛好家やコレクターから熱烈な支持を受け続けています。それは単なる“古いカメラ”という存在を超え、歴史・技術・文化・撮影体験のすべてを内包した「完成された機械」であるからです。
📈 コレクター市場での価値 ― 歴史と技術が詰まった希少品
S型シリーズは、その開発背景・歴史的重要性・生産数の少なさから、今もコレクター市場で高い人気を誇ります。特に初期の Nikon I(738台) や M(約1,600台) は現存数が少なく、まず見かけることはなく値段はあってないようなものです。
「SP」や「S3M」といった特別モデル、そして試作機やSPXといった非売品クラスは、まさに“博物館級”の存在であり、数百万円単位の取引すら発生します。また2000年に限定復刻された S3 2000年記念モデル も人気が高く、プレミア価格で推移しています。
コレクターにとって S 型は単なるカメラではなく、日本のカメラ産業が世界の頂点に立った象徴であり、手にすること自体が歴史を所有する行為なのです。
📷 撮影機としての魅力 ― 現代でも通用する操作感と描写
S型シリーズは今なお「現役の撮影機」として使用可能です。完全機械式シャッターは電池不要で、数十年経った今も正確に動作する個体が多く存在します。巻き上げレバーの感触、金属の質感、シャッター音の小気味よさは現代のデジタルカメラでは得難い体験であり、**“機械を操る楽しさ”**を味わえる数少ない存在です。
特に「SP」や「S3」に搭載されるレンジファインダーは視界が明るく、合焦精度も極めて高いため、今なおスナップ撮影やポートレートに十分対応できます。
さらに、当時の Nikkor レンズ は解像力・発色・ボケ味に優れ、現代のフィルムでも驚くほどシャープで味わい深い描写を見せてくれます。
「古いカメラ」ではなく、「撮影道具として今も通用する機械」――それが S 型の大きな魅力です。
🧰 手に入れる際のチェックポイント
中古市場で S 型を手に入れる際には、いくつかのポイントを押さえておくと安心です。
- シャッターの動作確認:低速から高速まで切れるか、粘りや不規則な動きがないかをチェック
- レンジファインダーの二重像合わせ:像がズレていないか、ピント合わせが正確か確認
- フィルム巻き上げ・巻き戻し機構:滑らかに動作するか、異音がしないか
- 外観・刻印・シリアル番号:修理歴やパーツ交換の有無を知る手がかりになる
また、希少な初期モデルやSPXなどの試作機は真贋判定が難しいため、信頼できる専門店やオークションハウスからの購入が望ましいです。
🏆 「所有する喜び」と「使う喜び」
S 型シリーズが現代でも特別な理由は、“所有する喜び”と“使う喜び”の両方を満たす数少ないカメラである点にあります。
戦後日本の技術が結晶した工業製品として、棚に飾って眺めるだけでも価値がありますが、フィルムを装填して撮影すれば、半世紀以上前の機械が今もなお“写真を生み出す道具”として生きていることに感動を覚えるはずです。
さらに、近年ではオールドレンズブームの高まりとともに、S型用ニッコールレンズをミラーレスカメラに装着して楽しむ愛好家も増えています。S型の遺伝子は、21世紀の撮影現場にも確かに息づいているのです。
✨ レンジファインダー史の金字塔として
Nikon S 型シリーズは、単なる過去の遺産ではありません。
それは日本のカメラ産業が世界と肩を並べ、そして追い越すまでに至った「道のり」を凝縮した存在であり、戦後の日本技術史を象徴する工業製品のひとつです。
そして今もなお、世界中のカメラファンがその魅力に惹かれ、手に取り、撮影し、語り継いでいます。S 型ニコンは過去ではなく、今も生きている――その事実こそが、このシリーズの本質なのです。
第6章:S型ニコンが残した遺産と未来への影響
Nikon S 型シリーズは、単なる「カメラ史の1ページ」ではありません。それは戦後日本が世界と肩を並べるために挑んだ技術革新の象徴であり、今日まで続くニコンの精神と哲学の原点です。S 型が残した遺産は、今もなお写真文化・工業デザイン・撮影体験のあらゆる場面で生き続けています。
🏭 日本の光学技術を世界へ押し上げた扉
S 型シリーズが登場する以前、日本製カメラは「安価な代替品」と見なされることが少なくありませんでした。しかし、S2 や SP の登場で状況は一変します。高精度なメカニズム、優れた光学性能、現場に即した操作性――これらが欧米のプロカメラマンから高く評価され、「Nikon」は信頼のブランドとして世界に名を轟かせました。
特に朝鮮戦争期における報道写真での活躍は象徴的です。Nikkor レンズで撮影された作品が欧米誌面を飾り、「日本製レンズの描写はライカやツァイスに匹敵する」と驚きを持って受け入れられました。S 型は、日本が“追う側”から“並ぶ側”へ、さらに“先を行く側”へと進化していく転換点となったのです。
🧠 工業デザインと撮影体験の原点
S 型シリーズが残したもう一つの大きな遺産は、工業デザインの哲学です。
装飾を排し、無駄を削ぎ落とした実用本位の設計は、後の Nikon F にも受け継がれ、さらには1970年代以降の一眼レフや現代のデジタル機にも通じています。
巻き上げレバーの位置や形状、シャッターダイヤルの配置、ファインダーの視認性へのこだわりなど、現代機の「当たり前」はS型が築いた基盤の上にあるのです。
また、S 型がもたらした「撮影する喜び」は、今もなお多くの写真家を魅了しています。フィルムを装填し、金属製のレバーを巻き上げ、静かなシャッター音を聞く――その一連の体験は、デジタル機器にはない“機械と人の対話”であり、撮影という行為の本質を思い出させてくれます。
🔄 一眼レフへの進化と“DNA”の継承
1959年、ニコンは初の本格一眼レフ Nikon F を発表し、カメラ史は大きな転換点を迎えます。以降、プロ用機の主流はレンジファインダーから一眼レフへと移り、S 型シリーズはその役割を終えました。
しかし、S 型が培った精密機構設計のノウハウ、操作系レイアウトの思想、プロ現場を意識した信頼性重視の姿勢は、すべて Nikon F へと受け継がれています。
さらに、F シリーズから F3、F5、そして現代のデジタル一眼 Z シリーズまで続く「ニコンらしさ」の根底には、S 型時代に築かれた哲学が脈々と流れているのです。
🪶 写真文化とコレクターの世界に息づくS型
現代において S 型シリーズは、単なる古典カメラとしてだけでなく、写真文化を語る上で欠かせない存在となっています。
コレクターズアイテムとしてはもちろん、今も実際にフィルムを詰めて撮影を楽しむユーザーが世界中に存在し、SNSや写真展でも S 型で撮られた作品が数多く発表されています。
また、S3 2000年モデルの復刻や、往年のレンズを現代のミラーレスカメラに装着して楽しむ動きなど、「S型の再評価」 はむしろ年々高まっています。70年以上前の技術が今も通用するという事実こそが、このシリーズの本質的な価値を証明しているのです。
🌟 未来への影響 ― “原点回帰”の象徴として
近年、デジタル一辺倒だったカメラ市場にも再び「機械式の良さ」「写真体験の原点」を求める声が高まっています。その潮流のなかで、S 型ニコンは単なるクラシックではなく、**「未来へのヒント」**を秘めた存在として再評価されつつあります。
“撮る喜び”を呼び覚ます操作感、長く使える機械としての耐久性、そして機能よりも本質を重視した設計思想――それらは、デジタル時代の製品開発においても示唆に富むものです。
S 型は過去を象徴する遺産であると同時に、「カメラとは何か」という問いへの一つの答えとして、未来への道標にもなっているのです。
終章:伝説は終わらない
Nikon S 型シリーズは、戦後日本の挑戦の象徴であり、写真史に刻まれた金字塔です。I 型から始まり、S、S2、SP、S3、S4、S3M、そして2000年記念モデルへと続く道のりは、日本が世界の舞台で技術を競うまでの軌跡そのものでした。
そして今もなお、S 型は静かに、しかし確かな存在感を放ち続けています。
それは“過去の名機”としてではなく、**時代を超えて愛される「撮影道具」**として――。
フィルムの巻き上げ音とともに刻まれる一瞬一瞬は、70年前と変わらず写真家たちの心をとらえて離さないのです。
📸 Nikon S 型 ――それは、単なるカメラではなく、「日本が世界へ放った挑戦の証」であり、「今なお未来へと語りかける機械」なのです。
本記事の一部内容は、2000年5月31日発行の 『ラピタ増刊 S型ニコン伝説』(小学館) を参考にしています。